2010年6月26日土曜日

内へ内へ

ご無沙汰しております…




只今内観中です。




もう一週間以上になるね。


心がザワザワしちゃって手につかないことが多い。


このザワザワは俺の幼少期から来ているものもある。


自分の感情を客観的に見れるときとそうじゃない時がある。


自分を自分で知らないうちに制限している時がある。


自分の自我。


他人の自我。



自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我自我

 
 
これがなくならない限り自由にはなれないな。
 
 
 
 
なんで、他人の自我は変えられないから自分の自我を見つめてます。
 
 
 
 
気持ちの奥の奥のもっと奥の自分で意識もしていないレベルまで掘り下げていくと、必ずしも自分にプラスじゃないことが増えてくる。
 
 
 
それを認めるのも、自分に適用するのも相当なストレスだ。
 
 
 
俺の言う「自由」は生半可なもんじゃないよ。
 
 
 
ストレスから解放されることじゃない。
 
 
何もしないことじゃない。
 
 
戦わないことじゃない。
 
 
必ずしも穏やかではない。
 
 
「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」だけが自由じゃない。
 
 
「怒」も「哀」も自由への気持ちから来る。
 
 
自由への渇望に比例していろんな気持ちが表れる。
 
 
 
 
それらを自分じゃないって抑え込んでいたのがいままでの自分。
 
 
 
最近はそれらを解放してかつ客観的に見えることも増えてきた。
 
 
 
もう少しでバランスが取れてくると思います。
 
 
 
 
 
最後に「愛は盲目」ってあるじゃない?!
 
 
 
一般的な考えと俺の解釈は異なる。
 
 
一般的な考えは恋に適用してください。
 
 
見えることが真実ですか。
 
 
見えないものは真実じゃないですか。
 
 
何かを見ようと渇望して進んでいくと見えないものにこそ意味があり、
 
 
見えないものこそ自分を突き動かし、
 
 
それがまた自分を苦しめる。
 
 
しかし、見えないものを心えぐられる気持ちになってでも向き合ってそこに我執を置いてくる。
 
 
自分が抱える我執を見えないもの(様々な言葉や気持ち)に置いていくことを続けたらどんどん軽くなるだろう。
 
 
この三次元で五感をフル活用して高次元に気持ちを持っていく。
 
 
この体を使ってね。
 
 
俺の中で
 
 
愛≒真理
 
 
 
だから、
 
 
 
愛は見ようとするのではなく見えてくるもの。
 
 
その見えたものは無数の見えないもので成り立っている。
 


 
見えるものが真実ではなく、真実とは見えてくるもの。






現実の世界はそうゆう意味では幻想の世界。






リアリティーは見えないとこから俺たちを突き動かす。
 
 
 
 
 
諺って真言だったんだね♪

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